気の原理・心編として、どのような心持の時、気が最も豊かに強く働くのを解説してきましたが、今回が最終回で次回からはやっと気の癒し・実技編に行けると思います。
最近は心のコトばかりで、あやふやな内容ばかりですいませんね。
で、栄えある最終回は「神仏観」。
自分が神や仏さんをどう思っているかですが、何も宗教めいたコトではありません。
神や仏という言葉があれでしたら、自分が世界をどう思っているかです。
世界は弱肉強食、食うか食われるかの世界なのか?
世界は愛と慈悲に満ち溢れているのか?
自分が存在する世界をどう見ているか、どう感じているか、どうイメージしているか、というコトです。
この辺は西洋と東洋でいささか、いやまったく違うんですね。
西洋的な神と東洋的な神や仏、西洋の世界観と東洋の世界観では全く異なります。
あまり宗教的な議論は好きではないので簡潔に生きたいと思いますが、宗教ってヘビーな問題ですからね。たまには考えてみるのもいい。
西洋の神様、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教。神様は一人。ほんで絶対的。
東洋の神様仏さまっていっぱいいる。それこそ八百万の神様がいる。
これはやはり、人間を取り巻く環境なんですね。
砂漠のような環境では規律的な、自分と民族を守る絶対的な神が必要だった。
潤いのある環境では、争いより調和が大事。慈悲のある神仏が自然です。
でも東洋的な神仏観も、あらゆるモノは一なるものの表れである、全ては仏性の表れである、とすれば一神教なんですね。
大本は一つだけど、その表れは無限である、とすると。
だから色々な神様や仏様がいったって、すべては一つの無限の様相ととらえれば、西も東も同じなんですね。
道教(タオイズム)なんかは、すべては無限の気の表れに過ぎない、だから多様性を歓迎するんですね。いくら宗派があってもいい、神様もいっぱいいていい、論理や考え方もいっぱいあっていい、多様性こそ無限の気の表れなのでむしろ様々な多様性を歓迎するのです。
おおらかなんですね、東って。
西の一神教にはこのようなおおらかさはありません。
全ては一つのモノの無限の表れだと考えれば争いも少なくて住みそうですが、規律、契約、それを守るためには争いも辞さない。
でもね、砂漠のような環境じゃあ東洋的な寛容、微笑みでは生き残れないでしょうね。
他民族が混在する環境では、見知らぬ客人は自分たちを殺しに来たのかもしれず、気張っていなければ、規律に戒律で縛りに縛らなければ生きていけない。
東洋的な寛容、微笑みを浮かべているうちにヤラレテしまうかもしれない。
あぁ、できれば宗教的な議論は控えたい…。
まぁ、東と西で随分と世界に対する考え方、神様や仏様に対する考え方が違うっていうお話です。
で、自分がどう世界を見ているか、感じているか、イメージしているか。
少し考えてみるのもいいかもしれませんね。
この世界を自分が人の役に立てる場だと思うのか、成長の場だと思うのか、争いの場所だと思うのか、エゴをブヒブヒ言わせたいだけなのか、慈悲の世界なのか、残酷な世界なのか、それとも意味はないのか?いや生きる意味は自分で見出すのか?
どのような世界か、どのような神様や仏様のイメージを持っているのか?
これはそのままあなたの人生を作ります。
そのイメージに沿って人生は展開していくので、どのような世界観、神仏観を持っているかってとても重要なのです。
ん、とてもヘビーなお話なので、この記事は後日、リライトしますね。