前回の投稿、気の原理・心編 見えない物への認識で治療も施術法も見えない部分が大事という話を書いたのですが、陰陽、補寫、虚実など東洋医学や東洋思想は見えない部分の認識に努めようとします。
で、見えない胃部分って認識しにくいから怖いんですね、子供が暗闇を怖がるように。
エゴの行動の原動力、恐れ
ふと、自分の心を覗いてみる。
何が自分のエゴで、何が自分の最も深い気持ちなのか?
何が自分を突き動かしているのか?
ど~も、これには2つの方向性があるようです。
一つ目はエゴ、自意識、我というもの。
私たちは自分が傷つかないように、アイデンティーを守れるように行動します。
エゴにとっては生きるとはサバイバルゲームなので、仮面(ペルソナ)をつけて一生懸命に生きようとする。
そして、エゴの声とは恐れや恐怖からきているんですね。
そして、世間も恐れや恐怖を煽り立てる…。
テロの脅威、地球温暖化の脅威、金融破綻の脅威。
アメリカの銃社会もそう、恐れを煽り自分の身は自分で守れるよう銃を持つ。
政治もメディアも恐怖を煽るんですね、これは民衆扇動、大衆操作といってもいい。
だから、それらに踊らされないで行動したいと思ったら、何がエゴの声か、本当の自分の声か識別する能力がなければいけません。
まぁ大体、「これってエゴなのかなぁ?」と自問自答するときはエゴなんですけどね。
で、エゴって恐れや恐怖がその行動の原動力ですから、自分の心の声に恐れや恐怖があるかどうかが識別する判断材料になります。
その反対の心って何でしょうね?
歓びや利他、創造の喜び、突き詰めれば仏性ということかもしれません。
見えないから怖い
自分の心がクリアーに見えること、これが智慧です。
見えれば怖くないんですね、また何を恐れているかクリアーになれば、それに対処する行動も正しいものを選べる。
でも自分の心を見るのは怖いこと、自分の至らなさ、自分の悪性を見るんですからね。
エゴは自分が正しいと思いたいので、自分の陰の部分を見るって難しいコトなんです。
だから、エゴは自分の見えない部分を他人に投影します。
自分の中にある悪を他人に投影して、他人は悪い、自分は正しい、という方程式を作り上げて安定したいんですね、エゴは。
悲しいコトですが、これは人間関係にとどまらず政治的な問題でもあり、あらゆる争いの原因でもあります。
言語化してみる
だから見えない部分を認識できるように、自分を客観視する、自分の心を内観するように修業が必要なんですけど、それには自分の思いを言語化することが大事です。
できるだけ自分のもやもやを言語化してみる、自分のトラウマを言語化してみる。
詳しくは分からなくても、陰の部分があるんだなと認識できるだけでも人生は変化します。
私達は、それぞれ固有のカルマや業というものに縛られている。
カルマや業というのは別におどろおどろしいものではなく、過去のトラウマ、衝撃的な出来事や思い、過去の突き動かされた気持ち、経験などです。
まぁ、縛られるのがお好きな方もいらっしゃるでしょうが、自由になりたいと思ったら今まで自分を守ってきたエゴや我、カルマや業がしんどくなるんですね。
体が成長すれば昔の服が窮屈になるように、精神的に成長してくると過去のパターンが窮屈になってくる。
またカルマや業とはお化けみたいなもの。
そこに光を当てれば「見たなぁ~」と言い残し消えていく。
カルマや業、エゴや我というものは光を当てられ理解されるのを待っている部分ともいえます。
愛され理解されるのを待っている子供のように。
いつか光を当てられ認識されるのを待っているんですね、でも私たちは普段はそのような部分には蓋をしてしまっている。
これは究極的には自分を愛する、我を抱きしめるということです。
自分を愛せないのに他人は愛せませんもんね。
我を抱きしめる、抱我(ほうが)って言葉は私、大好きなんです。
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